アジアンプリンス日記

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ベトナム駐在員のメモです。遊び先、金融、不動産、法律、レストラン、生活、日々蓄積した情報で、ベトナムに関わる方の役に立てれば幸いです。(上記の「アジアンプリンス日記」をクリックすると、記事一覧を見ることができます。)

ベトナムの通りの由来を知る面白さ(Xuan Dieu、Kim Ma、Linh Langなど)

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普段何気なく通っている、ベトナムの道の名前、過去の著名人の名前をとっていることはご存知だと思います。しかし、その人物がどんな人だったか、あるいは、その道の名前の由来を気にしたことはありますか?

生活している街の通りの名称の人物を知ることで、過去の偉人や街設立の思いを知ることができて、よりベトナムに愛着が湧きます。

この記事では、私が面白いと感じた、通りの名前に使用されている人物名とその背景を探っていきたいと思います。

 

国家の中心の場所:Hùng Vương

まず、ベトナム社会主義共和国の中心である、バディン広場です。この場所は、1945年9月2日に独立宣言が行われた場所ですが、目の前にホーチミン廟があります。この道路は、Hùng Vương(フン・ヴォン)という名称です。

Hùng Vương通りをタイ湖側に行くと、大統領府と共産党中央委員会事務所に挟まれており、大統領府の奥には首相府(Government Office)があります。これが、この場所が国家の中心であることを物語っています。

Hùng Vươngというのは、雄(フン:Hùng)王(Vương)のことで、ベトナムの数少ない国民の祝日の一つの「フン王の命日」(旧暦3月10日、新暦は年によって変わる)の、フン王です。

フン王はベトナム史上初の国家の王様の名前で、誤解を恐れずに言うと、日本の神武天皇のような存在とのことです。国家の基礎を築いた人物に因んでおり、国の最も重要な場所にふさわしい通りの名称ということが分かります。

*以下の書籍を参考にしました。

  

Hùng Vươngの両親:Âu CơとLạc Long Quân

Hùng Vươngには両親がいます。

母が、Âu Cơ(オゥ・コー)で、父がLạc Long Quân(ラック・ロン・クァン)です。この名称は、タイ湖東岸に住んでいる人は、馴染みが深いと思います。

紀元前29世紀ごろ、ベトナム北部で、Kinh Dương Vươngという王様と、龍神の子としてラック・ロン・クァン(Lạc Long Quân=駱龍君)が生まれました。彼は、フン王の国である、ヴァン・ラン(Văn Lang=文郎)の前の原始的国家の王でした。

ラック・ロン・クァンは、仙人の子であるオゥ・コー(Âu Cơ=嫗姫)と結婚。二人の間には、1つの卵から100人の子供が生まれ。。。その中の長男がフン王になって、ヴァン・ラン国という初代国家を建てたそうです。

 →参考記事

 

ちなみに、ラック・ロン・クァンは、伝説の英雄であり、不安定な国を治める中で、魚の魔物(Ngư Tinh)、九尾の狐(Hồ Tinh)、邪悪な樹の精(Phong Châu)を退治したなどの武勇伝があります。

例えば、九尾の狐は、1,000年以上のもの間、ハノイ近郊のロンビエンで、美女などに変装し、通りかかった村人を誘惑し、自らの洞窟におびき寄せて、食べていました。ラック・ロン・クァンは自らわざと洞窟に付いていき、3日間の戦闘の末、勝利します。こうして、洞窟で捕まえられていた多くの住民を救助しました。その後、ラック・ロン・クァン川から水を汲み上げ、この魔物の巣を壊滅させました。その場所は大きな湖に沈み、Đầm Xác Cáo(狐(Cáo)の死骸(Xác)の池(Đầm))と呼ばれました。このĐầm Xác Cáoが、今のタイ湖だということです。

参考記事2

参考記事3

 

一方、Âu Cơは永遠の命を持つ仙女です。美しく、優しく、医療スキルがあったため、病気で苦しむ人を治すために国中を旅に周っていました。Âu Cơが旅の途中で、魔物に襲われて逃げていたところ、偶然Lạc Long Quânが通りかかり、彼女を助け、そこから二人は恋に落ちました。

この過程で、ベトナムの海と山が交わる神話が色々と生まれたそうです。

二人は愛し合っていましたが、Âu Cơはずっと山に暮らしたく、一方でLạc Long Quânは海に暮らしたがっていました。そのため、二人は別々に暮らし、50人ずつ子供を引き取りました。この100人の子供たちが、ベトナム人の祖先と信じられています。

参考記事4

こうして見ると、ハノイの道路と地理にもっと愛着が湧いてきませんか?

 

詩人:Xuân Diệu

Âu Cơのあるタイ湖東側に来たので、続いてXuân Diệu(スワン・ジゥ)です。FraserやSomerset、その他おしゃれな雑貨やカフェがあるので有名な道路です。

Xuân Diệuは1916年~1985年まで生きた、現代の詩人です。1945年以前は、愛の詩を書いていましたが、独立後に共産党に加わると、労働党やホーチミン主席を讃える詩を主に書いていました。

 

Xuân Diệuは、ベトナムで最も有名な詩人で、1930年代の新しい詩のムーブメントを先導した人です。 中国から影響を受けた詩のスタイルから、西欧文化に影響を受け、より個人的、感情的、叙情的な表現を使ったとのこと。

愛の詩を多く創作したにも関わらず、結婚生活は6ヶ月だけ。彼は同性愛者だったと言われています。彼の詩は男性をベッドで苦悩させるため、ベトミンにも関わらず叱責を受けたとのこと。。。

彼の詩は不朽の名作と呼ばれており、学校でも彼の詩を勉強するようです。

参考記事

 

画家:Tô Ngọc Vân

Xuân Diệuから鮨処豊方面を左に曲がると、Tô Ngọc Vân(トー・ゴック・ヴァン)があります。Diamond Westlake Suitesやおしゃれカフェ、雑貨屋、レストランがある小さな道です。

Tô Ngọc Vânは、1906年~1954年まで生きた、ベトナムの有名な画家です。彼の絵画のいくつかは、ベトナム美術博物館(66 Nguyễn Thái Học)で展示されています。

貧乏な生活の中で育ちましたが、インドシナ美術大学に進学します。1945年のベトナム独立宣言前に多くの作品を残し、独立宣言後は新しいベトナム美術大学の学長に就任します。フランス抵抗戦争中は、祖国開放をテーマとする作品を残しました。ピカソの言葉を借りて、「描くことによって戦う」と語っていたそうです。

最期は、ディエンビエンフーの戦場近くで、フランス軍の爆撃に遭い、亡くなりました。

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Tô Ngọc Vânの絵『Thiếu nữ bên hoa huệ(百合の傍の若い女)』(Wikipediaより)

 

参考記事

Kim Mã、Liễu Giai、そしてLinh Lang

ちなみに、多くの和食屋や日本大使館がある、我々に馴染みのあるキンマーやリュウザイは人物ではなく、昔の地名等から来ているようです。リンランは神。

・Kim Mã:11世紀タンロン城の西にあった村。李朝(Lý)から陳朝(Trần)の時代、馬を飼育する宮殿があった。(Kim Mã=金馬)

参考記事

・Liễu Giai:同様に、タンロン城の西にあった村。当時、このあたりに多くの宮殿があり、沿道に柳(Liễu)の木が多く植えてあったことから、Liễu通りと呼ばれていた。柳は日本語の音読みもリュウですね。

参考記事

・Linh Lang:タンロン城の西にある村の神。トゥーレ公園横のVoi Phục寺院に祀られている。伝説によると李朝の2代皇帝Lý Thái Tôngの息子で、王位継承を放棄した後、タイ湖を這う黒竜となって消えたらしい。

参考記事

 

Vincom Center 前のBà Triệu

Hùng Vươngと同様に、ハイバーチュンにあるBà Triệu(バ・チゥ)もまた、ずっと前の偉人の名前から取られています。

この人物はすぐに忘れられないストーリーがあります。

 

3世紀に活躍した女傑であり、兵士が通常は歩きか馬に乗って戦うところ、白い象に乗って戦ったとのこと。どこまでが真実か、本名含め不明な点も多いですが、中国の支配に抵抗した民族の英雄として認識されています。

言い伝えによると、彼女は、身長9尺(272cm)で、3尺(90cm)の長い乳房を持っており、それが鎧に収まらなかったため肩に回して戦闘に出ていたとのことです。。。

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Bà Triệu(Wikipediaより)

 

現在のタインホア省の厳しい環境で育ち、中国の支配から脱したいと幼少期から考えていたそうです。19歳になるまで山に避難し、戦闘訓練をしていました。

その後、村を脅かしていた凶暴な象を飼いならし、戦闘に向います。

しかし、彼女の家族は、彼女が戦士ではなく、「普通の生活」を送って欲しいと思っていました。彼女がそこで言った言葉は、

私はただ、風に乗って波を歩き、東の海の大きなクジラを殺し、辺境をきれいにしてみんなが溺れるのを助けたいだけ。なぜ私が他人の真似をして男性に屈し、奴隷になりさがらないといけないのか。なぜ単純な家事労働のために自分自身を諦める必要があるのか。

この言葉は、何世代もの間、ベトナムの女性を励ましてきたとのことです。

家族を説得し、中国の支配に対する宣戦布告を書き、兄弟と一緒に軍を組織しました。Bà Triệuは軍司令官に抜擢され、タインホア周辺から中国軍を撤退させました。中国の皇帝は女性兵士に何度も敗退したことに激怒し、中国から大軍を率いて、Bà Triệu軍は敗退。Bà Triệuは降伏を拒み、捕虜になるよりも川に飛び込むことを選びます。

Bà Triệuは、ベトナムのジャンヌ・ダルクと呼ばれることがあるようです。

外国の侵略への抵抗と、男女の役割というジェンダー問題への挑戦という2つの点において、多くの女性から支持を受けているとのことです。

*以下の書籍を参考にしました。

 

まとめ

いかがだったでしょうか。上で紹介した通りを何気なく通る際に、ぜひ思い出してハノイの歴史を感じてください😃